自由と身分②

渡辺京二の『逝きし世の面影』

 江戸時代の末期から明治時代の初期にかけて日本を訪れ、

 世界に類を見ない日本の精神文明を体験した欧米人の手記や書簡を掲載している本。


引き続き、第七章 自由と身分より引用。

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 「外国人にとって家庭使用人の地位は、日本に到着したその日から、初めのうちは大変な当惑の源となる。仕える家族に対する彼らの関係には一種の自由がある。その自由はアメリカならば無礼で独尊的な振舞いと見なされるし、多くの場合、命令に対する直接の不服従の形をとるように思われる。・・・・・家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやりかたで行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならぬ。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。日本での家政はつましいアメリカの主婦にとってしばしば絶望の種となる。というのは彼女は自分の国では、自分が所帯の仕事のあらゆる細部まで支配するかしらであって、使用人には手を使う機械的労働だけしか与えないという状態に慣れているからだ。彼女はまず、彼女の東洋の使用人に、彼女が故国でし慣れているやり方で、こんな風にするのですよと教えようとする。だが使用人が彼女の教えたとおりにする見こみは百にひとつしかない。ほかの九十九の場合、彼は期待どおりの結果はなし遂げるけれど、そのやりかたはアメリカの主婦が慣れているのとはまったく異なっている。・・・・・使用人は自分のすることに責任をもとうとしており、たんに手だけでなく意思と知力によって彼女を仕えようとしているのだと悟ったとき、彼女はやがて、彼女自身と彼女の利害を保護し思慮深く見まもろうとする彼らに、自分をゆだねようという気になる。・・・・・外国人の接触によって日本人の従者が、われわれが召使の標準的態度とみなす態度、つまり黙って主人に従う態度を身につけている条約港においてさえ、彼らは自分で物事を判断する権利を放棄していないし、もし忠実で正直であるならば、仮にそれが命令への不服従を意味するとしても、雇い主のために最善を計ろうとするのだ」。(明治中期のこと)p230

 「多くの場合、使用人は自分の主人の人となりとその利害を、当人以上によく知っており、主人が無知であったり誤った情報を与えられている場合には、彼自身の知識にたよって事を運ばねばならない」。p231

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 華族女学校で、生徒にバーネット夫人の『小公子』を読ませたが、ある召使が若き貴公子の一風変わった物言いに笑い声を立てたことで恥をかいたと述べられている一説を説明する段になると、「わが小さな姫君たちは、欧米では、召使いが上級者の会話に興味を示したり、あるいは口をはさんだりするのは分不相応なことであって、話しかけられぬ以上けっして口を開かず、どんな事情であろうとにやりと笑ったりすることはないと知って、並々ならぬおどろきを示した」。p231

 日本では、夜に入って一家が火鉢のある部屋に集まって団欒するとき、女中もその仲間入りして、自分の読んでいる本の知らぬ字を主人にたずねることができる。また、ある家を訪ねると、女主人が不在のときは女中頭がその代わりをつとめて、客といろいろな談話を交わしてもてなすのである。p231

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 「もっとも基本絵的で全般的な礼法違反は、召使やその他の下級者が目上の者に対する態度に表れている。・・・・諸君は料理人に羊肉を買いなさいと命ずる。彼はすぐに出かけて、牛肉を買ってくる。彼は牛肉のほうが安価であることを知っており、あなたの出費を少なくしようと考えているのである。事実、不服従が習慣になっている。それはわざと悪意をもってする不服従ではない。主人がやるよりも自分のほうがもっと良く主人のためにやれるのだという、下級者の側の根深い信念に基づくものである」。p232

 なるほどこれなら、殿様が家臣団から祀りあげられたり、ときによっては押込められたりするはずだ。昭和前期の軍部の暴走を主導した佐官級幹部の「下剋上」現象も、その淵源するところは深いといわねばならない。p232

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 「お客様を乗せてけわしくて滑りやすい坂をかけのぼるのは、彼の誇りの問題なのだ。客が車夫のためを思って車から降りて歩くと言っても、彼はけっして言うことをきかない。雪がたいそう柔らかくて彼の足が滑りがちで、けわしい坂を昇るのに三度も転んだものだから、私は降りて歩くと何度もいったのに、私の車夫は断乎として私の申し出を拒むのだった。“ダイジョーブ”というのが私の抗議への彼の返事だった」。p232

 「奉公人であることは権威を失堕することではない。奉公人は主人に、特に子供に親密に結びついている。彼は臆せず意見を述べ、それを求められるのを待たずに意見を言うことすらある。彼は膝ずりして茶を進め、額を地につけて命をうける。しかし一瞬後には荒っぽい冗談をとばし、その上それが見事に受けとめられる」。p232

 まことに「上の者は下の者次第」なのだ。p232

(画像はここから 化物体力!!かつての日本人

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「その礼節は、弱者を屈従的なものと思わせないような深遠な自由の感情を伴っているように思える。召使いは礼儀正しく奉仕の義務を果たしてしまうと、その後は別にためらうこともなく自然のままの関係に入っていくように思われる」p233

 「いたるところに見かけるこの礼儀正しさのなかに、私は民主的――ほかに適切な言葉がない――と呼んでもよさそうなものを感じる。下の者が礼節や服従の義務を果した後で、明らかにそれとわかる個人的な興味を物事に示す様子を見て私はそれを感じる」p233

 平伏を含む下級者の上級者への一見屈従的な儀礼は身分制の潤滑油にほかならなかった。その儀礼さえ守っておけば、下級者はあとは自己の人格的独立を確保することができた。なぜならば上級者は下級者に依存し、その地位を彼らに左右されてきたからである。身分制は専制と奴隷的屈従を意味するものではなかった。むしろ、それぞれの身分のできることとできないこととの範囲を確定し、実質においてそれぞれの分限における人格的尊厳と自主性を保証したのである。身分とは職能であり、職能とは誇りを本質としていた。p233

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 ・もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。

 ・夜に入って一家が火鉢のある部屋に集まって団欒するとき、女中もその仲間入りして

 ・事実、不服従が習慣になっている。それはわざと悪意をもってする不服従ではない。

 ・ “ダイジョーブ”というのが私の抗議への彼の返事だった

 ・ 荒っぽい冗談をとばし、その上それが見事に受けとめられる

 ・身分とは職能であり、職能とは誇りを本質としていた。


これらはほんの少し前まで残っていた文化なのではないかなと思いました。
邦画『三丁目の夕日』や『小さなおうち』で似たような場面がありました。

“ダイジョーブ”って今でも日本人よく使う。
どんなに滑ろうが、登りきるのが彼の仕事であるし、たのしみでもあったのではないかなと思ふ。
真面目と遊びとチャンネルを使い分けている。言いたいことは言うし、行動してしまう。
その仕事で、最良で最善のことをたのしんでやっていた。
だから、誇りがあったし、主人のことを思って行動できた。
なぜそのようにしたかと問われればもちろん答えることができた。
今はどうであろうと思う。




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