裸体と性①

渡辺京二の『逝きし世の面影』

 江戸時代の末期から明治時代の初期にかけて日本を訪れ、

 世界に類を見ない日本の精神文明を体験した欧米人の手記や書簡を掲載している本。


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第八章 裸体と性 より引用。

 幕末来日した西洋人を仰天させ、ひいては日本人の道徳的資質さえ疑われるにいたった習俗に、公然たる裸体と混浴の習慣があったとこはひろく知られている。日本は、西洋では特殊な場所でしか見られない女性の裸が、街頭で日常的に目にしうるという意味でも「楽園」だったのである。p245

ペリー艦隊に通訳として同行したウィリアムズの話
 「私が見聞した異教徒諸国の中では、この国が一番みだらかと思われた。体験したところから判断すると、慎みを知らないといっても過言ではない。婦人たちは胸を隠そうとはしないし、歩くたびに大腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き、その着装具合を別に気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭で見られ、世間体などおかまいなしに、等しく混浴の銭湯へ通っている。みだらな身ぶりとか、春画とか、猥談などは、庶民の下劣な行為や想念の表現としてここでは日常茶飯事であり、胸を悪くさせるほど度を過している」(ウィリアムズは無邪気に傲慢な宣教師根性の持主)p245

ドイツ人画家ハイネの話
 「浴場それ自体が共同利用で、そこでは老若男女、子供問わず混じり合って、ごそごそとうごめき合っているのである。また外人が入って来ても、この裸ん坊は一向に驚かないし、せいぜい冗談混じりに大声をあげるくらいだった。この大声は私が察するには、外人が一人入ってきたので、一人二人の女性の浴客があわてて湯船に飛び込んで水をはねかしたり、あるいは、しゃがみ込んだ姿勢で、メディチ家のヴィーナスよろしく手で前を隠すポーズをとったりしたからであるらしかった」。p246

 彼は日本人の「極端な綺麗好き」の例証として、入浴シーンを紹介しているにすぎないので、そういう素直な眼のせいでこの混浴情景は、ウィリアムズのいうような野放図な情欲にくまどられた堕落図ではなく、おおらかで自然な習俗としての性格を示すものになっている。p246

 彼がおどろいているのはむしろ、湯加減の極端な熱さに対してである。p246

 湯気が立ちこめ、身体はまるでゆでた蟹のようになっているのに、もう一人の男がどんどん火を焚きつけている。p246

(画像はここから 銭湯の歴史日本編 5 江戸の銭湯は混浴

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 ある温泉を訪れてはじめて、その無邪気な実相を知った。湯には子づれの女が入っていたが、「彼女は少しの不安気もなく、微笑をうかべながら私に、いつも日本人がいう『オハヨー』を言った」。p248

 「この偉大な入浴施設が世論の源泉だとすれば・・・・・他のすべての議会には欠けている男女両性の権利や平等を全面的に認めている点で推賞にあたいする」p249

 「~あらゆる年齢の男、そして夫人、少女、子どもが何十人となく、まるでお茶でも飲んでいるように平然と、立ったままからだを洗っていた。そして実をいうと、入って来たヨーロッパ人も同様に気にもされないのである。スタール夫人は、ヘラクレスやヴィーナスの彫像を見ていて、同行の若い士官から、慎みが大そう欠けているとお思いになりませんかと尋ねられ、『慎みがないというのは、見る方の眼の問題なのね』と答えた。という次第で、日本の裸の礼節に何も怪しからぬ点はないと、私は考えることにした」。p249

(画像はここらか かつて日本は美しかった 江戸時代は裸を見られてもへっちゃらだった?

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 「風俗の退廃と羞恥心の欠如との間には大きな違いがある。子供は恥を知らない。だからといって恥知らずではない。羞恥心とは、ルソーが正当に言っているように『社会制度』なのである。・・・・・各々の人種はその道徳教育において、そしてその習慣において、自分達の礼儀に滴っている、あるいはそうではないと思われることで、規準を作ってきているのである。率直に言って、自分の祖国において、自分がその中で育てられた社会的約束を何一つ犯していない個人を、恥知らず者呼ばわりすべきではなかろう。この上なく繊細で厳格な日本人でも、人の通る玄関先で娘さんが行水しているのを見ても、不快に思わない。風呂に入るために銭湯に集まるどんな年齢の男女も、恥かしい行為をしているとはいまだ思ったことがないのである」。p250

 リンダウは「大変育ちの良い日本人」とこの問題について話し合う機会があったが、その日本人は「ヨーロッパ人の憤慨と、私が説明しようと努めたためらい」をまったく理解できず、次のように反問したという。「そうですね、私は風呂で裸の御夫人に気づいたとしても、目をそらすことはしませんよ。そうすることに、何か悪いことでもあるのですか」。p251

 「日本女性は慎しみ深さを欠いているとずいぶん非難されているが、西欧人の視点から見た場合、その欠け具合は並大抵ではない。とはいえそれは、本当に倫理的な意味での不道徳というよりむしろ、ごく自然の稚拙さによる。・・・・・日本女性が自分の身体の長所をさらけ出す機会を進んで求めてような真似を決してしないことは、覚えておいてよいだろう。風呂を浴びるとか化粧をするとかの自然な行為をする時に限って人目をはばからないだけなのである。・・・・私見では、慎みを欠いているという非難はむしろ、それら裸体の光景を避けるかわりにしげしげと見に通って行き、野卑な視線で眺めてみては、これはみだらだ、叱責すべきだと恥知らずにも非難している外国人のほうに向けられるべきであると思う」。p251

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 人生の逸楽に目のない若きボーヴォブルにとって、「生活に隠しごとがない」ように裸体を隠さない日本の風習は、むしろ歓喜に値した。ここでは性的羞恥心は知られていない感情だ。それは「地上の天国の天真爛漫さ」なのだ。p252

 明治十四年に小田原付近を旅したクロウが描き出すある漁村の夜景は、ほほえましい自然な印象を私たちに与える。「あちこち、自分の家の前に、熱い湯につかったあとですがすがしくさっぱりした父親が、小さい子供をあやしながら立っていて、幸せと満足を絵にしたようである。多くの男や女や子供たちが木の桶で風呂を浴びている。桶は家の後ろや前、そして村の通りにさえあり、時には一家族が、自分たちが滑稽に見えることなどすっかり忘れて、幸せそうに入っている」。p252

 開港直前の長崎を訪れたあの愉快なホームズ船長は町を散策中、あだっぽい娘が全裸の状態で家からとび出して、「家の前の約十二フィートのところにある長方形の桶」にとびこむのを目撃した。彼女はあやうく船長と衝突するところだったが、顔も赤らめず、びっくりしている彼を桶の中から「くすくす笑っていた」。p253

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 モースは日光旅行の際、同行のマレー博士が温泉の温度を計るのを手伝ったが、「オハヨー」とほがらかな声のする方を見ると、前日出会った遠慮深い二人連れの娘が入湯中なのに、ドギマギしてしまった。彼とマレーが次々に浴場の温度を調べて廻ると、老若男女が何をするのか不思議に思ってぞろぞろとついて来た。「ついてくる人は入浴者に気にかけず、入浴者はついて来る人達を気にかけなかったが」、モースには「これは全くしかあるべきこと」に思われた。p254

 「我々に比して優雅な丁重さは十倍も持ち、態度は静かで気質は愛らしいこの日本人が裸体を恥じぬのと同じく、恥しく思わず、そして我々にとっては乱暴だと思われることでも、日本人にはそうではない、との結論に達する。たった一つ不作法なのは、外国人が彼らの裸体を見ようとする行為で、彼等はこれを憤り、そして面をそむける」。p254

(画像はここから 絵手本『北斎漫画』初編 挿絵 えでほん ほくさいまんが しよへん さしえ

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いろいろ文句を言っているけれど、

裸体の女性から声をかけられた外国人は素直に喜んでいる人もいる。

裸である = 慎みがないということではなかった。

裸の男女がいても、なーーんにも問題がなかった時代。

 「この偉大な入浴施設が世論の源泉だとすれば・・・・・他のすべての議会には欠けている男女両性の権利や平等を全面的に認めている点で推賞にあたいする」

 「地上の天国の天真爛漫さ」


日本は地上の天国だった~。

第八章②につづく。





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