裸体と性②

渡辺京二の『逝きし世の面影』

 江戸時代の末期から明治時代の初期にかけて日本を訪れ、

 世界に類を見ない日本の精神文明を体験した欧米人の手記や書簡を掲載している本。

ikishiyonoomokage.jpg

引き続き、第八章 裸体と性 より引用。

 モースは「都会でも田舎ででも、男が娘の踵や脚を眺めているのなんぞ見たことがな」かったし、また、「女が深く胸の出るような着物を着ているのも見たことがな」かった。彼はそのことを、「若い娘が白昼公然と肉に喰いこむような海水着を着、両腕や身体の輪郭をさらけ出して、より僅かを身にまとった男達と砂の上でブラリブラリとしている」母国の風俗と比べずにはおられなかった。そして「日本人が見る我々は、我々が見る日本人よりも無限に不作法で慎みがないのである」と主張せずにはおられなかった。p255

 「女性は上半身裸になる。身体にすっかり丸味のついたばかりの若い女でさえ、上半身裸でよく座っている。不作法とも何とも思っていないようだ。たしかに娘から見ると何の罪もないことだ。日本の娘は『堕落する前のイヴ』なのか」。p255

 「一人の下男が私の夕食のために米をといだが、その前にまず着物を脱いだ。それを炊く下女は、仕事を始める前に着物を腰のところまで下ろした。これはちゃんとした女性の間で習慣となっていることである」。p256

f0186852_12282248_convert_20150917162737.jpg

 「日本人は、生活の事情上やむを得ないときには、裸体を恥かしく思わない。恥かしいのは、こうした事情のないのに、ただみえをはっていろいろな欲情を起こさせることである。日本の女は誰の前でも子供に母乳をふくませる。暑いときに、家の中で一心に働いている際は、戸外を通って内をのぞく者の眼に、裸に近い姿で映るかもしれない。だが誰も、やさ男を惹きつけて欲望を起させる目的で、着物の袖から腕を露わしているとは思いはしない」。p257

 アリス・ベーコンが海辺の旅館で夏の一週をすごしたとき、天秤棒で担いだ果物を毎日売りに来る小さな女がいた。ある日アリスが浜辺をぼんやり見ていると、浜辺に見慣れた天秤棒と籠、それに青い着物が置き去られているのが目についた。商売を終えた彼女が海に入っているのだ。やがて、推測どおりに海から現れた彼女は、砂浜でからだを拭い始めた。その時一人の男がその場に出現したが、彼女は顔見知りらしいその男が近づいても平然として、ゆったりとからだを拭い続け、立ち上がって男にお辞儀し、ほほえんで挨拶を交わし始めたのである。むろん、彼女は生まれたままの姿だった。p257

Four_women_working_very_hard_and_carrying_vats_of_water_convert_20150917163110.jpg

 「男女の入浴者が入り乱れて、二十軒ばかりの公衆の小屋から、われわれが通り過ぎるのを見物するために飛び出してきた。皆がみな何一つ隠さず、われわれの最初の両親(アダムとイヴ)が放逐される前の、生まれたままの姿であった。こんな度肝を抜かれたことはなかった。・・・・男女の入浴者が全員、裸であるのが平気で、意識も顧慮もせず、新奇な光景をゆっくりみて、好奇心を満足させようとした」。p260

 「日本にはそもそも欧米的な意味における無邪気などない。・・・・絵画、彫刻で示される猥褻な品物が、玩具としてどこの店にも堂々とかざられている。これらの品物を父は娘に、母は息子に、そして兄は妹に買ってゆく。十歳の子どもでもすでに、ヨーロッパでは老貴婦人がほとんど知らないような性愛のすべての秘密となじみになっている」。p261

 「猥褻な絵本や版画はありふれている。若い女が当然のことのように、また何の嫌悪すべきこともないかのように、そういったものを買い求めるのは、ごくふつうの出来ごとである」。p262

139699617721892592227_convert_20150917163313.jpg

 「わたしが日本人の精神生活について知りえたとことによれば、愛情が結婚の動機になることはまったくないか、あるいはめったにない。そこでしばしば主婦や娘にとって、愛情とは未知の感情であるかのような印象を受ける。わたしはたしかに両親が子どもたちを愛撫し、また子どもたちが両親に懐いている光景を見てきたが、夫婦が愛し合っている様子を一度も見たことがない。神奈川や長崎で長年日本女性と夫婦生活をし、この問題について判断を下しうるヨーロッパ人たちも、日本女性は言葉の高貴な意味における愛をまったく知らないと考えている」。p265

 当時の日本人にとって、男女とは相互に惚れ合うものだった。つまり両者の関係を規定するのは性的結合だった。むろん性的結合は相互の情愛を生み、家庭的義務を生じさせた。夫婦関係は家庭的結合の基軸であるから、「言葉の高貴な意味における愛」などという、いつまで永続可能かわからなぬような観念にその保証を求めるわけにいかなかった。p266

さまざまな葛藤にみちた夫婦の絆を保つのは、人情にもとづく妥協と許しあいだったが、その情愛を保証するものこそ性生活だったのである。当時の日本人は異性間の関係をそうわきまえる点で、徹底した下世話なリアリストだった。だから、結婚も性も、彼らにとっては自然な人情にもとづく気楽で気易いものとなった。p266

性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかなものであり、従って羞じるに及ばないのだった。「弁慶や小町は馬鹿だなァ嬶ァ」という有名なバレ句に見るように、男女の営みはこの世の一番の楽しみとされていた。そしてその営みは一方で、おおらかな笑いを誘うものでもあった。p266

pre02_img1_convert_20150917163957.jpg

 刺激を求めて怪奇な趣向をこらそうとも、本質的にあっけらかんと明るい性意識がその根底にある。オリファントが彼らを「いくらか不真面目で享楽的な民族」と感じたのは、一理も二理もあるというべきだった。p266

 湯に浸っているかたわらを通りすぎる外国人に向って、邪心なくにっこりほほえみかけたというかつての日本の娘たち。性について現実的でありすぎず享楽的でありすぎたといえぬことはない古き日本は、同時にまた、性についてことさら意識的である必要のない、のどかな解放感のみち溢れる日本でもあったのだ。精神的に高貴な愛を知らぬと手きびしい、しかしもっともな判定を下したヴェルナーが、湯上り姿の娘が団扇でからだをあおぎながら通行人としゃべっていても、誰も衝撃を受けない日本の習俗について、「こうして日本人は『禍を転じて福とした』のだとわたしは思っている」と思わず洩らしてしまったのは、実に意味深長というべきではなかろうか。p268

img_0edo_ratai_onna.jpg



裸であることが恥かしくないというのは、驚く。
みんなが裸であれば、隠す必要もないし、その理由がはっきりしている。
夫婦関係・家族であることを継続させるため。

 性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかなものであり、従って羞じるに及ばない

現代の服装や、当時の外国人の服装の方がよっぽど性的である。
服をまとって見えないけれど、形を強調させたり、その方がずっと下品であるし、意味がわからない。
なになにだから、こうだって言うのが、なんて分かりやすいのだろうか。
どうやったら幸せにたのしく生きていけるかって本当はとてもシンプルなんだろうなと思いました。
おもしろい、当時の人はもっとおもしろかったであろう。。






スポンサーサイト