女の位相③

渡辺京二『逝きし世の面影』
 江戸時代の末期から明治時代の初期にかけて日本を訪れ、
 世界に類を見ない日本の精神文明を体験した欧米人の手記や書簡を掲載している本。


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~引き続き、第九章 女の位相から引用~

 武士階級の女たちでさえ、われわれが想像する以上にものおうじせずのびやかであったようだ。アンベールは横浜のオランダ公使館に落着いてまもなく、運上所(税関)の幕吏の夫人たちからの訪問を受けた。一行は既婚婦人四名、年頃の娘二人、それに大小の子どもたちで、夫の許しを受けての訪問とのことである。彼女らは最初は。下駄を脱いだものかどうかなどとしおらしかったが、応接間の鏡の前に来るとどっと大声で笑い出した。自分たちの全身が映し出されているのが珍らしかったのである。あとは替えにかかっている絵は誰を描いたのかとか、家具のひとつひとつの使用法とか、質問の洪水が始まった。彼女らはアンベールの私室まで侵入し、ボタン、化粧品、裁縫道具に好希の眼を光らせ、ボタンや版画のプレゼントを受けてやっと退散した。手真似と片言で結構話は通じたらしい。p306

 江戸の庶民に、男言葉と女言葉の差がほとんどなかったことは、十返舎一九や式亭三馬を読めばあきらかだ。p309

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 江戸見物に出て、湯屋で失敗した話を書いているが、それによると、その人はお湯をたっぷり汲んだ桶をみつけ、さすがお江戸は気が利いていると思って使ってしまったところ、それは他人が汲んでおいた湯だった。自分の湯を使われてしまった女は、あやまる彼女に「さあさあ、遠慮はいらねえ、たんとお使いなせいやし」と、かえって親切にしてくれたのいうのだが、その「伝法なかみさん」の番頭とのやりとりがすさまじい。
 「オイ番頭さん、おいらの上り湯がないよ」
 「そこに汲んどきましたぜ」
 「めくらじゃあるめえし、汲んである湯が見えねえでどうする」
といった具合で、こんな口調が江戸前の女言葉だとすると、慎み深く従順な日本女性などという定型化したイメージは吹っ飛ばないわけにはいかない。p309

 明治の大富豪安田善次郎(1838~1921)の若き日を回顧したある女の話によれば、十五歳の彼女が井戸端で洗濯をしていると、うしろから肩を突っつく者がある。それが善次郎とは知らず、「また小僧の清公がからかいにやがると、伝法な声を張上げ」てしまったのだが、その「伝法な声」というのが「何をしゃアがるんでイ」だった。これは幕末の話だが、化政期の庶民の女が、男か女かわからないべらんめい口調でものを言ったことは、紹介ははばかるが当時の春本からもあきらかなのである。p309

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 「松木屋の妻は婦人ながらも気性あらく、物事におくれをとらず、すこぶる豁達、男児の風のありて、かねて我等をしたひ、見送りながら善光寺迄いたらんつもりに相成りけるに」p311

 ある女が自分の母のことを語ったことによると、彼女は若い頃六千石の旗本に「御小姓」として奉公した人だが、とにかく「ズバヌケたことをやる性分」で、「女達同士で、新宿へお女郎買いに」行ったことがあるという。かわいらしい十八ばかりの花魁が相方で吸付たばこをして、いろいろ世間話や見上話をしたとのことで、彼女はその花魁にあとでも半かけなどを送ってやっていた。「随分変わった母でした」というのだが、とにかく江戸時代やその遺風の残る明治初期には、こういう豪快豁達な女性は稀ではなかったようだ。p311

 徳川期の女性はたてまえとしては三従の教えや「女大学」など縛られ、男に隷従する一面があったかもしれないが、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であったようだ。p311

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 外国人観察者は少数の例外を除いて、こぞって日本女性を讃美した。p312

 外国人は食事が口に合うわけでもないのに、外国式ホテルではなしに日本風の旅館に泊まりたがる。「それは日本の家に一歩踏み入れば、そこに婦人の優雅な支配力を感じられるからである」。家庭では「彼女は独裁者だが、大変利口な独裁者である。彼女は自分が実際に支配しているように見えないところまで支配しているが、それを極めて巧妙に行っているので、夫は自分が手綱を握っていると思っている」。p312

 とくに深く印象づけられたのは、日露戦争中の婦人の振舞いだった。彼は広島の陸軍病院と、松山捕虜収容所の病院を視察し、「日本の看護婦こそまさに慈愛に溢れた救いの女神だと、心底から感じた」。「松山で、ロシア兵たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作一つ一つを目で追うその様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。何人かの勇士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである」。p313

 「日本の女性は、賢く、強く、自立心があり、しかも優しき、憐れみ深く、親切で、言い換えれば、寛容と優しさと慈悲心を備えた救いの女神そのものである」。p313

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 「もし我々西洋の女性が東洋の姉妹たちから、勇気ある謙遜、義務への忠実、比類なき無私を学ぶなら、どんなにか世のなかを変えることができるだろう」p314

 「この国では、西欧と違って結婚は人生における至高の関係ではなく…私たちが言うような愛とは何の関係も」ないという事実について、考えをめぐらぬわけにはいかなかった。「日本女性にとって結婚とは子供の時代の屈託ない幸せな日々から、理性により責務を負う段階への移行です。全身全霊、頭も心もこの一事――新しい家の主人とその一族ことごとく満足させること――に捧げなければならないのです。私たちから見れば、これはとても辛く冷酷なことです。西欧の最良の女性は、自分の価値をはっきり意識するよう教育されていますから、もしこのような絆に縛られれば、自分の人格がばらばらになったと感じるでしょう」。p314

 「愛はほんとうは、私たちには束縛としか見えないもののなかに生れるのかも知れ」ない。p315

 フレイザーが直面したのはまさに「感情よりも義理を重んずる」武士家庭のしつけだったのである。p315

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 “日本人の友”は愛を恋愛と受けとり、主人公が夫のために自己犠牲を払ったのは恋愛感情からではないと言いたかったのである。もはや惚れた腫れたなどという恋の病とは無縁の義務、それこそより深い意味の愛ではなくして何だろうか。愛は恋と無縁に、義務という束縛の形をとって育つ。これはフレイザーにとって発見だった。p315 

 日本の古き文明はそれを実生活とは関わりない舞台上の心中に閉じこめたのである。p316

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 応接間の鏡の前に来るとどっと大声で笑い出した。

 庶民の女が、男か女かわからないべらんめい口調でものを言った

 婦人ながらも気性あらく、物事におくれをとらず、すこぶる豁達、男児の風のありて、

 男性に対しても平等かつ自主的であったようだ

 寛容と優しさと慈悲心を備えた救いの女神そのものである

 「感情よりも義理を重んずる」武士家庭のしつけ


素直で活発だけれど、凛としていた。
凛としていられたのは、学があった=賢かったからなんじゃないかなと思う。

厳しい制度があったが、それは建前で自由であった。
でも、自由には制限があった。
見本があり、形があった。

いまの世は自由なはずなのに、生きずらいのは自分に自信がないから。
なぜ自信がないかは、学がないから。
学がないのを誰かのせいにはできない…。


次章は、第十章 子どもの楽園です。




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